鎖大師 青蓮寺の歴史

弘仁10年(819) 弘法大師が東国を御巡暦なされた際、鎌倉にとまって17日間の護摩の秘法を修されたとき、美しい天女があらわれ護摩の助法や斎食の給仕をなさいました。
大師は無事修法を終えることができ、そのことを聞かれた天女は一粒の仏舎利を大師に奉り、その姿は忽ちのうちに見えなくなりました。翌朝眼を覚ますと、側の池には青色の美しい蓮華が咲きほこっていたといわれています。
当寺はその故地に建立された寺であるために、飯盛山青蓮寺の寺名がつけられています。
当寺の開山は、空海(弘法大師)、中興開山は寛正元年(1460)に亡くなった善海といわれています。
江戸時代は、法談所で関東檀林三十四院の一つとされていまいした。
鎖大師は、弘仁7年(816)嵯峨天皇の命により弘法大師が諸国行脚の旅に出る時、天皇との別れを惜しんで、等身大の像を鏡に向かって作り、着ていた衣服・法衣・念珠・五鈷などをつけ、天皇に献上したといわれています。
天皇が亡くなった後、大和(奈良県)の岡寺に移され、さらに後に鎌倉鶴岡八幡宮に移され、等覚院の蓮華定院に安置されました。明治維新の神仏分離の時、八幡宮の所属する近くの松源寺に移され、その後寿福寺を経てこの青蓮寺に移されたと伝えられています。
鎖大師は、関節が動くようになっており、目は玉眼、爪は水晶で造られており、鎌倉時代の貴重な裸形彫刻として重要文化財に指定されています。